都市空間を歩きながら、ガラス・カーテン・ウォールに映し出された空や街並み、そして自分自身を眺める時、奇妙な浮遊感を感じます。今、私が現象として眺めている風景は、模像としてもガラスに映し出され、都市の風景は二重化されて知覚されているように感じます。
そこにはビルの内部、つまりガラスの内側を隔たりと共に見つめる私の眼差しも同時に存在し、多くの場合、消費の欲望と結びつきながら頭の中では、瞬間毎に記号的処理が行われているようです。
都市の風景はこのような視覚の多重性を帯びながら、その視覚を自身の鏡像を含み込んだものとして内面化し、更に内面化の過程を無色透明なものとしています。この無色透明な内面化の過程こそが都市の浮遊感の原因なのかもしれない。そんなことも考えたりします。
最近の絵画の制作では、ガラス・カーテン・ウォールのこの無色透明なレイヤーを絵画の画面に重ねることを先ずは考えています。その上で、このレイヤーの作用を記号処理を推し進める、都市化・人間化の方向ではなく、そのさかしまである非ー記号的なもの、非ー人間的なもののベクトルに変質させることは出来ないかと考えています。
それは、ルイス・キャロルが言語表現の中で、言語を意味のベクトルではなく、無意味なベクトルに変質させたことを私に思い起こさせます。
ガラスによって二重化された現代の都市の風景は、その源を辿れば、ロンドン万博が開催された際に建造されたクリスタル・パレス(水晶宮)に繋がると私は考えています。
産業革命によって可能になったガラスの大量生産は、万博会場をはじめ、ガラス屋根の駅舎、大温室、そしてウィンドウショッピングという人々の眼差しを誕生させました。時代の変化が生み出したそれらのものは、キャロルの小説でも少なからず意味を変質させる為のモチーフとなっているのではないでしょうか?
私の絵画作品で描かれる観葉植物の鉢植えの多くは、窓ガラスの近くに置かれたものです。今回の展示では丸の内や大手町のオフィスビルに置かれた観葉植物を多く描いています。
私がモチーフとしてこれらに惹きつけられるのは、観葉植物が自然物なのか人工物なのかよくわからないものとして存在している点にあります。これは生き物なのか、オブジェなのか。身の回りに存在する、大地との接続を欠いた緑豊かなものとは一体何なのか、私はとても興味があります。
哲学者のエマニュエーレ・コッチャは生態学的・構造的に、植物は二重の存在であると述べています。植物の根を潜在する第二の身体として捉え、植物の地表でのあらゆる努力が向かう先と丁度正反対へ植物自身を向かわせます。植物の地表での見えている姿と地中にて潜在する根の活動の二重性こそが、私たちが生きているこの環境自体を生み出していると彼は述べています。地中の鉱物的な世界と太陽の光線を混合することにより、私たちが住まう環境は創り出されていると。
翻って言えば、観葉植物の鉢植えには、地中に潜在する活動領域が限定的にしか与えられていないと私は思います。大地へのアクセスが絶たれていること。そのこと自体が観葉植物の社会空間での生の条件になっています。それは私たち人間がこの地表において生きる、生の条件とも大きく重なるでしょう。
「地へ、地の上空へ、水晶宮の内へ、外へ」という展覧会タイトルは、一枚の絵画の鑑賞経験の中で起きる出来事の一部を恣意的に抜き出し、言語として表したものです。
都市の風景の持つ視覚の多重性、無色透明な内面化の過程と浮遊感。環境との限定された関係性と絶たれた大地へのアクセス。
それらは反転構造を伴ないながら絵画が描き出されるモチーフとなっています。
「地へ、地の上空へ、水晶宮の内へ、外へ」アーティスト・ステートメント,
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