essay

故郷としての郊外

勝俣涼

石井友人は以前、自身が生まれ育った郊外の空き地に穴を掘ったことがある。しかし過去の地層へと遡行するかに見えるその行為は果たして、ニュータウン開発によって失われた故郷を想像的に回復する、というノスタルジー的な目論見だったのかといえば、そうではないと私には思える。というのも、石井にとってはほかならぬ郊外こそが故郷であるからだ。郊外の典型的な描写として、「どこにでもある風景」というのがある。

その無個性性は一面において事実だとしても、しかし風景や場所の記憶は、風景や場所それ自体に書き込まれるのではない。あくまで人のうちに宿るのだ。そこで生まれ育った者にとって郊外は、「どこにでもある風景」でありながら、特別な風景でもある。
この二重性を抱えた「郊外」の感覚こそが、石井の制作をノスタルジー的な感傷の意味充足から解放しているのではないか。郊外の拡大現象は、各々独自の文化圏として存在する多種多様な外部空間を均質かつ画一的な内部へと包摂するユートピア的運動であり、異質な土地に同化を強いる植民地主義的な介入ともいえる。石井が鉢植えの植物をたびたび描くのには、そうした背景がある。その環境固有の閉じた生態系を構成する自然のままの植物ではなく、人為的に作られた、「どこにでも移植できる」入れ替え可能な個体。それがまるで自画像のように描かれる。乱視的にズレつつ重なる輪郭は、その「作られた」構築物としての虚構性を、同期を失調させた線や面や色のデジタルな継ぎ接ぎも露わに教えている。むしろその虚ろさにこそ、リアリティがあるとでも言うように。

「未来の家」プレスリリース