桝田倫広
会場のいちばん奥には、白い花咲く樹木を描いた絵画が展示されている。その側壁には、発色の強い緑や赤を基調としたする線描よって描かれた荒いグリッド状の抽象画がある。一見、何の関連も見出せないこのふたつの絵画は、どちらも同じ写真を基に描かれたもので、ディプティック(二連画)、すなわち一対の絵画として並置されている。対象をより再現的に描いた前者は「イメージ」、その色彩と光を直感的に捉えた後者は「シグナル」名付けられている。
石井によれば、この両者の間は「解像度」の違いがあるのみで、いかなる質的差異もない。確かに彼の作品ではイメージであっても近くで見れば、絵画の集積と認識できるほど明瞭に残されており、イメージの中にシグナルが内在されているとも言える。一方、シグナルにおける式面と線描のざわめきの中から、私たちは元の参照源とは異なるイメージを引き出す事もありえるだろう。とはいえ、明らかに見た目の異なる一対の絵画をヒエラルキーなしに隣り合わせに置く事で、両者の差異が露になり、共通の参照源である対象の多義性が切り開かれる。
ある事象が多様な解釈に開かれること自体は、絵画に限ったことではない。だが石井の関心は、絵画言語において生じる解釈の多様性と、それが生じる場にある。たとえば”Window (plant)”は、鉢植えのある庭と思わしき光景が三つの異なる視点から捉えられ、フィルムのコマのように縦に繋ぎ合わされている。この作品では画面の地やモチーフの抑え気味の色調に比して、その上に置かれた鮮やかな色の斑点が、イメージの余剰として前景にせり出してくる。これによりイメージとシグナルとの関係に亀裂が生じ、平面であるはずの絵画は深みをもち、不透明な空間の厚みが私たちと絵画空間の間に現出する。この厚みこそ絵画形式特有の「窓」であり、私たちの既成概念や対象が拮抗し、諸差異の産出される場なのだ。
この場とは「S/s」(シニフィアン/シニフィエ)における「/」にジョルジョ・アガンベンが見出したものを思い起こさせる。アガンベンによれば「/」は両者の結合というよりもそれらを分かち隔て差異を産出する壁、あるいは亀裂であり、そこにこそ「意味作用の核心」があるという。とするならば、石井の目論見もまた、差異を過剰に生み出すことではなく、むしろこの差異を生み出す亀裂、すなわち不透明な空間の厚みを推し量り、意味作用の構造を開示することにあるのではないか。
こうした試みのために採用されたモチーフが植物であることは興味深い。なぜなら植物は枝分かれし無数の差異を生み出すばかりか、そこから種子を放出し、まったく別個の樹木(意味の系列)をつくることさえあるからだ。このような諸差異は主体の存在を単に転覆させたり否定したりするのではなく、むしろ連結と断絶を繰り返しながら、不鮮明なほどにもつれあう。こうした幾重にも折りたたまれた亀裂を捉えることは、並大抵のことではない。しかし、石井はこの途方もない現実と向き合うために絵画へと向かうのだ。
「アートレヴュー」美術手帳